1996年の徒然な日々
「金蔵おじいちゃんの工場」


私は3人姉妹の次女である。

とある事情で、私たち三姉妹は小学生くらいの時から週の5日は工場をやっているおじいちゃんちで過ごし、
週末は当時世界史の先生であり特殊教育&カウンセリング研究の仕事をしていた父の家で過ごした。

おじいちゃんちでは、私達三姉妹(かをり&みどり&さつき)と大ママ(祖母)と律子(母)と叔母の順子さんと姪の二葉ちゃんと一緒に暮らした。いわゆる女系家族ってやつだ。

おじいちゃんは私たちが生まれるずっと前から、工場をやってた。


工場の思い出といえば、機械の音と姉の弾くピアノの音が、毎朝私を起こしてくれたことや、夏の夜は工場のトタン屋根にアンズやプラムがぼたぼた落ちる音で眠れなかったりしたものだ。

小学生のある日の真夜中、何やら騒がしくてベッドからふと窓を見ると空が真っ赤に染まってた。
私は真夜中なのになんで夕焼けなんだらう・・・と、寝ぼけながら思ったのだが隣接する工場が火事だった。
姉が起こしてくれて助かった。ホッ。

あの時のガラス窓がわれる音やあまりに油じみた場所だったのでなかなか鎮火せず燃えていくさまは
今想い出してもなかなか恐い思い出だ。

大正生まれの大ママはお布団を干したり、私の頭を結ってくれたりする以外、
ほとんど家事ができなかったから、母がほとんどやっていた。


でも、すごくキレイでオシャレなおばあちゃんで、出掛けるとなるとなかなかかぶってく帽子や服が決まらなくていつもみんな待たされた。

大ママは、よく私たちには見えない世界の、誰かとお話ししてた。最初の娘・・つまり母の姉を、早いうちに亡くしちゃったもんだから、
おかしくなっちゃって。

でも、あたしたちにとっては、それが普通だった。

母は中学生の頃、自転車に大ママを乗せて精神病院に通ったそうだ。

そんなおばあちゃんだったから、おじいちゃんによく怒鳴られたり、お味噌汁をかけられたりしていた。
ドラマの「寺内貫太郎一家」の、あのお膳をひっくりかえしケンカするシーンは、まさにお膳こそひっくりかえしはしないが、
うちそっくりだ〜!と思ったものだ。
毎夕、緊張感あふれる食卓だったのであった。

そう、おじいちゃんは、酒乱だったのである。

子供だった私はそんなおじいちゃんがとても恐かったしキライだった。世代の差もあるけれど、いわゆる昔気質の職人さんだから、
とても厳しかったし夜おこられて外に出されたりもした。

私が家を出て10年がたち、大ママが8年前に他界してから、おじいちゃんは少しづつ柔らかくなったけれど、
それでもあまり言葉を交わすことはなかった。
お互い、うまく言葉でコミュニケーションをとることができないのだ。
きっと普通、女の子が父親に嫌悪する時期、私はおじいちゃんといたことから、その感情がおじいちゃんに向けられてたのかもしれない・・
と最近思ったのだが。(実際、実の父とは、お友達が気持ち悪くなるほど仲良しだ)
でも、今、経済的に困ってる時など助けてくれるのはいつもおじいちゃんなのだ。

大人になって少しづつ少しづつ言葉を交わすようになったけど何か肝心なことは話せずにいる。
他人のほうが案外簡単にできたりするものなのかもしれない。


1995年の6月におじいちゃんは、年齢や(なんてったって83才)その業界の不況、ということもあり、
とうとう、何十年もやってきた工場を閉めることになった。

翌年のお正月、私はいとこの二葉ちゃんと音のしない工場に入った。
ちゃんと中に入るのは生まれて初めてだった。

今まで油にしみた地面がイヤだったし、あの金属のけづられていく音がちょっと恐かったし、
油まみれの機械が汚いとも思っていた。

でもはじめて対面した機械たちは、ひとつひとつがとても可愛らしかった。
それに手作りの配線板やらがとてもかっこいいと思ったのだ。
そこら中に鉄のきりくず(これを「きりこ」っていうんだが)が落ちていてなつかしかった。
時々ごはんの中に入ってたりしたものだ。(手伝っていた母の洋服についていたものが入ってたんだと思うが、今思うとちょっと恐い・・・。)

カレンダーが6月のままで止まっていた。

私は、たくさんの時間をこの機械たちと一緒に働いてきたおじいちゃんのことや、
これから解体されて処分されていってしまう機械たちのことを考えて、
いろんなことを思って涙が出てしまった。その感情はあんまりうまく言い表せないのだが、
おじいちゃんやこの機械たちに、たくさんのありがとうとたくさんのごめんなさいを言いたいと思った。

でもその手段が言葉では無かったので写真をとり、そして金蔵おじいちゃんにプレゼントした。



結局は「おもしろいことする子だねえ」で終わっちゃって未だコミュニケーションをとることに成功していない。



日記の目次に戻る